世界平和大観音像
秘宝館だとか廃墟だとか、いわゆる「珍スポット」と呼ばれる場所がある。
わたしはそういった所に積極的に出向く方ではないけれども、こちらから出向かずとも、否が応でも向こうから出迎えてくれる珍スポットが淡路島にはある。
この日わたしは、元刑務官の友人と風呂(温泉or銭湯)でも行くか、ということで夕方から淡路島に向かっていた。といっても、わたしは友人の車の助手席に座っていただけだが。
この友人(以下、元刑務官とする)とは中学以来の付き合いであるが、とりたてて共通の趣味や話題はない。だが、お互い「強烈な風呂好き」という一点のみで二人の関係は続いており、月に一度はどこかの風呂に一緒に行っている。
会うと毎回「ゴルフどう?」「パチンコ勝ってる?」という、およそわたしの人生と縁のないものについての調子を伺うのが毎回のおきまりで、このやりとりを車内で交わしている内に大体気づくと風呂に到着する。そうすれば、あとは各自好きに入浴し、満足したら適当なところで切り上げて帰る、というのをもう十数年以上はやっている。
そんな元刑務官と「今日は久しぶりに軽く遠征してみるか」ということになり淡路島にあるスーパー銭湯に向かった。明石海峡大橋を渡るのも久々だ。
途中、淡路サービスエリアに立ち寄った。ここにはなぜか巨大な観覧車がある。神戸側からも、この観覧車が煌々と光っているのが夜になるとよく見える。神戸の人間なら一度は見たことがあるのではないだろうか。
ほんの数分の間に空の色が刻一刻と変化していた
観覧車を眺めながら「いつも遠くから見てるけど、ようやく間近で見れたわ……」と思わずわたしが漏らすと、即座に「十年くらい前にも一緒に来たことあるぞ」と訂正するかのように元刑務官が言った。いくら思い出そうとしても、全く記憶になかったが、この元刑務官は異常に記憶力が良いのでおそらく間違っていないはずだ。
そのかわりと言ってはなんだが、サービスエリアを出発したところで、わたしは急に観音のことを思い出した。観音のことが急に頭に浮かぶなんて、熱心な仏教徒かなにかかと思われるかもしれないが、全くそんなことはなく、単純に「あの」観音のことを思い出したのだ。そう、淡路島にはとても有名な、一度でも目にすると一生忘れることのできない観音像がある。
そうだ、わたしは10年前にも元刑務官と一緒に淡路まで観音像を見に来たのだった。
冒頭にも書いたように、本来「珍スポット」とは明確な意志をもって向かうところである。秘境だとか秘宝館だとか、とにかく秘密めいているからこそ、珍スポットであり、人々を惹き付けるのだ。だがこの淡路島の珍スポットは、秘密めいてもいないし、もはやスポットでもない。なんせ100m以上もある観音像が道沿いに立っているのだ。その名も「世界平和大観音像」。
勢い余って通り過ぎてしまったので戻る
この観音が作られた経緯や裏話などは、検索すればいくらでも出てくるのでここではしない。確実に言えるのは、およそ40年前に建造されたこの100メートル級の観音像は、現在所有者不在であるということと、淡路市としても様々な理由により手を出すことが出来ず、放置されたままになっており、荒廃する一方だということである。
(観音の左手首付近の一部黒くなっている部分は数年前の台風で損傷した箇所とされる)。
いわゆる珍スポットの多くは存続が危ぶまれていることも多い。後継者不足だとか老朽化による取り壊しだとか、そういうようなあれである。
しかし、言葉は悪いが、たとえば地方の秘宝館が閉館したり取り壊されたりしても、一部のファンや関係者を除けば困る人はそこまで多くないだろう。だが、こちらは100メートル級の観音像である。そんなものがだんだんとリアルタイムで老朽化が進んでいる上に、かといって取り壊すこともできないのである。
観音像の周辺には住居やお店などもある。近所にゴミ屋敷があっても困るだろうが、誰も管理していない100メートル級の観音像が近所にあるのもたまったもんじゃないだろう。
わたしが中学生の頃に明石海峡大橋が完成するまでは、神戸から淡路島に行くにはフェリーに乗るしかなかった。小学生の頃はじめてフェリーに乗って淡路島に行ったときは、特産品でもある玉ねぎが島中いたるところに干してあって衝撃を受けたのをよく覚えている。神戸で海沿いを歩けばいつでも望める島であるはずなのに、近くて遠いような存在が淡路島だった。
今、車で淡路島を走ってみると、島中いたるところソーラーパネルでいっぱいだ。橋の開通にともない、島を訪れる人の数も増えた。フェリーもいつの間にか利用者減少による収支悪化で廃止になった。わたしが訪れたことすらすっかり忘れていたあのビカビカとした観覧車も、十年ほど前にとつぜん、さも昔からあったかのようにできていた。
先ほど、わたしはこの観音像と比べると秘宝館がつぶれてもたいした影響はない、と書いた。
本当はわたしも、なにかが無くなる、失われるということが、そんな単純なことではないのを知っている。(本当は秘宝館も大好きだ)。
珍スポットに限らず、現在多くの古い建物や地域が取り壊されたり、再開発されたりしている。それは神戸に限らず日本中どこでもそうだろう。
わたしもそういう流れに対して、うんざりするような気持ちや、寂しさを覚えたりもする。だけれどその一方で、もうそれは止められないものとして、どこか諦めている部分もあるのも事実だ。
だが、この世界平和大観音像を前にすると、そういった安易にセンチメンタルに流されそうになる郷愁もあっさりと吹っ飛んでしまう。
なぜなら、たとえ老朽化が進んでいようと、あまりにも頑然と観音像はそこに屹立しているからだ。
明石海峡大橋の開通によって島は大きな変化を迎えたが、観音像は橋の開通前も開通後も、相も変わらずここに40年間立ち続けている。
ひょっとしたら、観音像を訪れたのがもう日も暮れた夜だったから余計にそう思ったのかもしれない。
夜の闇が都合の悪いところを全部覆い尽くしてしまったからかもしれない。
明るいときに見たら印象はまた違うのかもしれない。
だが、この日のわたしには、相変わらず巨大で、10年前のあの日となんら変わらない観音像に見えた。
ただただ、直すことも壊すことも出来ないという圧倒的現実だけがそこにあった。