夜釣りと焚き火
時間があったので、久々に釣りに行った。
16時から24時までぶっ続けでやった結果、最後の方はグロッキーになって立っているのもやっとという感じになってしまった。
もうこの時期だからか自分以外に釣りをしている人はほとんどいないようだった。
17時くらいには日が暮れてしまったのだけれど、クソ寒い時期に長時間、誰もいないまっ暗闇の中で、ひたすらおなじ行為を延々と繰り返す、というのはとんでもなく疲れる。
そんな当たり前のことを再確認した。
最近ウッドストーブというグッズを新たに購入したので、浜に落ちてる枝なんかを適当に燃やして焚き火をしながら夜釣りをする、ということに今回初めてチャレンジした。
この試みは大成功で、なによりもまず暖かいし、まっ暗闇の中で「火」があるというのはものすごい安心感があった。
夜釣りをしていると、ときどき変な人が突然背後に立っていたりするときがある(ああいう輩はなにが目的なのだろうか?)。
これまで夜間はヘッドライトしかつけていなかったのだけれど、ある程度周囲も明るく照らし出してくれる焚き火の存在は、心理的にもかなりの安心感をもたらしてくれた。
あと全然釣れていなくても、なんとなく焚き火をしているだけでも結構楽しかった。
ただ、寒さと8時間近く焚き火の煙を吸い続けたせいか、帰る直前にはかなり疲労困憊になってしまい、ほとんど吐きそうになった。
あまりの気持ち悪さに、ひとり深夜の堤防にうずくまりながら「気分転換のために出かけたはずだったのに一体自分は何をやっているのか……」という思いで一杯になりながら帰った。
献血
久しぶりに献血に行った。今年の二月に行って以来だ。
これまでの人生において献血だけはお金をもらってもやるまい、と避けてきたはずなのに、今年からとつぜん隙あらば行きたいと思うようになった(といっても今回を含め、まだ二回しか行ったことはない)。
正確に言うと、数年前から「献血に行ってみたい」という気持ちが自分の中で湧き上がってきていたのだけれど、去年までは持病の薬を服用していたので断念していた。
現在はその薬を飲まずにすんでいるので、今年の頭にようやく初献血に挑戦したのだが、それが存外良かった。
献血に行って良かった、とはどういうことかと思われるかもしれないが、自分の場合は精神的なものが大きい。
それは「誰かの役に立っている」というある種の”徳を積む”ような気持ちもあるにはあるのだけれど、それよりも、大量に血を抜くことによって(400ml)その失われた血を補うために「体内で新たに血が作り出される」という変化に興味がある。
献血後、二・三週間ほどで血液の成分・量ともに完全に本来の状態に回復するらしいのだが、なんだかその行為を通して心身ともにリフレッシュするような感覚になるのだ。
わたしは専門家ではないし、日本赤十字社もそんな献血の効能はもちろん謳っていないのだが、たとえ錯覚だったとしても、そんな効果があるような気がしてならない。
自分でもこれが多分にプラシーボであることは自覚している。
しかし、現在の日本では禁止されているが、中華圏や韓国では「瀉血(しゃけつ)」という血を抜く療法が現在も残っているし、わたし自身も血をこんなに大量に作り変えるのだから何かしらの変化はあるに決まっているだろう、と考えている。
献血ルームの待合室は静かで落ち着いた雰囲気がいつも漂っている。わざわざ痛い思いをしてまで、無償で血を寄付しにくるような人を迎え入れるわけだから、スタッフのホスピタリティもとても高く気持ちが良い。
わたしはいつも「献血に来る人はどんな動機でやってきているのだろう」と思いながら周囲の様子を窺っているのだけれど、自分がいちばん打算的な気持ちでここにやってきているのではないかと毎回思ってしまう。
下手したら死ぬ
ふと気づくとまた日記をサボってしまった。
最近は釣りばかり行っている。
数年に一度、自分の中で異常に釣り熱が高まる時があるのだけど、先日久々に須磨海岸で釣りをしてみたところ、あまりにも楽しかったため、この二週間くらいで四回も釣りに行ってしまった(主に夜釣り)。
数年ぶりに釣りをやると「久々だな〜この感覚」と思う瞬間が必ずある。
それは案外魚を釣りあげる瞬間なんかではなく、釣った魚を締める瞬間だったり、「落ちたら死ぬな〜」というような危険な場所を一人で移動したりしている瞬間などだったりする。
前者に関しては、ふだん日常生活の中で、自らの手を用いて生き物を殺めることは(ゴキブリなどの害虫を除けば)基本的には無いので、バタバタと暴れる魚を押さえつけているときはどうしても少し神妙な気持ちになる。
後者に関しては、夜釣りで周囲に誰もいないようなまっ暗闇の中、テトラポットの上を一人で移動しているときなんかは、落ちたら本気でシャレにならないので、相当な集中力を持って移動している。
格闘技の試合に出るとか、危険な環境で労働をしているとか、目をつぶって運転してみるとか、突発的な事故にでも巻き込まれないかぎり、日常の中で「これ下手したら死ぬな〜」という場面はあんまりないと思うので、それを手軽に味わえる?深夜の一人で行う夜釣りには妙な緊張と興奮がある。
とにかくドはまりしているもんだから、最近はネットサーフィンの時間はほぼ釣りの情報を調べることに使っている気がする。『須磨・釣り』で検索すると、それはそれはいろんな情報が出てくるものだから、須磨海岸を考える上で、新しい視点がインストールされたような気分だ。
『8月の須磨』エッセイ執筆情報
元文藝春秋で現在はフリー編集者の宮田文久さんにお誘い頂いて『DISCO vol.2』にエッセイと写真を寄稿しました。
タイトルは『8月の須磨』です。
以下のURLからPDFをダウンロードできますので、良かったら読んでみてください。スマホからも見れます。
https://editdisco.wixsite.com/mysite/blog/disco-vol-2
豪華な執筆陣に何故か珍獣が一匹混じっています。
※こちらの『DISCO vol.2』は書店やショップさんでご希望の場合は無料で紙版の文庫本を配布しているそうなので、ご興味がある方は宮田さんまで連絡してみてください。
もし関心を持っていただけた場合は、わたしの他の著作もオンラインショップから購入できますのでよろしくお願いします。
檀上 遼
猫をほめる
数ヶ月前、石田ゆり子さんのインスタグラムを何気なく見ていたら自分の飼っている猫をめちゃくちゃほめてみる、という動画がアップされていた。
それは、石田ゆり子さんがまるで人間の子供にでも話しかけるように、猫に対して「◯◯ちゃん(猫の名前)可愛いね〜かしこいね〜」という感じでほめまくる動画だったのだが、わたしはそれを見て、ちょっとこっ恥ずかしいというか「自分は正直よーやらへんな……」と思った。
我が家には今年で17歳になる『みどり』という雌の猫がいるのだが、みどりは本当に猫らしい猫というか、マイペースで気まぐれで、あまり人にベタベタ甘えたりはしない。
唯一、母にだけは強烈になついていて、膝に乗ったりもするのだけれど、母以外の家族には滅多にそういったことを要求しない。
だが、一ヶ月ほど前から「物は試し」と思い、わたし以外の家族がいない隙を狙って、みどりに対して「なんでそんな可愛いん?」「白いし美人過ぎる……」「とんでもないおりこうさんやね」などと、それはそれはもう歯の浮くようなセリフを延々と投げかけながら撫でる、という行為を続けてみたところ、しだいにみどりの態度に変化が現れるようになった。
なんと、わたしに対して「ゴロゴロゴロ……」という、猫特有のあの声を出す頻度が確実に増えた上、たまにではあるが膝にも乗ろうとするようになってきたのだ。
わたしはこれまでの人生において、ときおりみどりと第六感とでもいうべきところで通じ合っているような感覚を覚えたことがいくどかあったけれども、そういったものは雰囲気だとか波長だとかフェロモンだとか、言語とはまた別の部分で、お互い疎通しあっているのだと思っていた。
だから、今回の件は自分の中では結構衝撃的で、なぜなら「猫に対してもちゃんと言葉にして言わないと伝わらないのかよ……!」と思ってしまったからである。
もちろん、みどりが日本語を言語として完璧に理解しているってことはないだろうし、歯の浮くようなセリフをわたしが口にする際の口調や手付きがふだんより優しいものだったため、単純にそれを「快適」だと思っただけという可能性もある。
だけれども、自分の中で「口に出さなくてもわたしのみどりへの気持ち(愛)は伝わっている」とどこか考えていた部分があったので、それをひっくり返されたような思いがしたのも事実だ。
「なにをそんな当たり前のことを?」とひょっとしたら思われる方もいるのかもしれないが、なんだか自分が昔ながらの亭主関白のような「言わなくても伝わる」というようなマインドでいたことを痛感させられてしまったのだ。
カフェインレス
最近カフェインレスのコーヒーを家でよく飲んでいる。
わたしは二十代の頃はあまりコーヒーを飲まなかったのだけど、三十路を超えたくらいからとつぜんコーヒーに目覚めた。就寝直前にコーヒーを飲んでも平気で寝れたりする体質なこともあって、この数年は昼夜を問わず四六時中いつでもガブガブと飲んでいた。
だが、ここ数ヶ月でカフェインの副作用が気になるようになってきた。
というのも、相変わらず夜に飲もうが寝れることは寝れるのだが、モヤモヤしている気分の時なんかにコーヒーを飲むと、そのモヤモヤがやたらと強まったり、もしくは急に気持ちがソワソワして落ち着かなくなったりするようになったのだ。
わたしは思った。
「これは単純にカフェインのとり過ぎだな……」と。
そういうわけでネスカフェゴールドブレンドのカフェインレスコーヒーを試しに買って最近は飲んでみているのだが、これが結構良い気がする。
起床後の頭がボーッとしているときにコーヒーを飲んで強制的に目を覚ます、というのを何年もやっていたのだけれど、なんだがカフェイン中毒になってるんじゃないか、というような感覚も心のどこかであったので、今は週の半分くらいは朝はカフェインレスを飲むようにしている。
この数ヶ月間、家でコーヒーを飲む直前に「またソワソワしたらどうしよう……」という不安を感じるときもたまにあるくらいだったので、精神衛生的にも気軽に飲めるカフェインレスコーヒーの存在はとてもありがたい。
……という話をこないだアーユルヴェーダの勉強をしている友人に話した。
するとその友人から『ブラックじゃなくて牛乳と砂糖も入れた方がいいよ』という助言をもらった。なんでも、アーユルヴェーダ的には牛乳や砂糖には気持ちを落ち着かせる効果があるのだという。
その話を聞いて以来、自宅ではカフェインレスコーヒーか、普通のコーヒーを淹れる時もカフェオレにすることが増えた。
実際に自らの体内でどういうことが起こっているかは知る由もないが、 そういった感じで最近はまた安心してコーヒーを楽しめるようになった。
プラシーボも多分にあるかもしれないけれど、以前よりコーヒーに依存していない気がするので満足している。
金本
今季セリーグ最下位の責任を取っての辞任ということだった。
だが、実際は本社からの「解任」だというのが実際のところらしい。ネット上でも球団のレジェンドに対するあまりの仕打ちに、不満の声が数多く上がっている。
わたしは現役時代から「アニキ」こと金本知憲選手のファンだ。東京でまだ働いていた頃、東京ドームに阪神対巨人のナイターを見に行ったことがある。十年くらい前だろうか。
当時は東京ドームのすぐ近くの水道橋にある会社で働いていて、ハッキリしたことは忘れたが、誰かがどこかからタダ券をもらってきたので、会社の同僚たちと一緒に皆で見に行ったのだった。
わたしは実は超ド級の阪神ファンなので「阪神対巨人」という伝統の一戦をタダで見れるだなんて……と一人興奮していたのだけれど、わたし以外の同僚はそこまで野球に興味があるわけではない、というより、ほとんど興味がない人ばかりだった。
皆は野球を見ながらビールでも飲もう、くらいのテンションだったのだけれど、わたし一人だけ野球を見る気まんまんで鼻息荒く東京ドームに向かったのを覚えている。
そんな感じでわたしを除けばなんとも緩い雰囲気でその日は野球観戦をしていたのだけれど、途中で東京ドーム全体が凍りつくような瞬間があった。
金本が死球を受けたのだ。それも頭部に。
思わず酔いも覚めてしまうほどの直撃で、ドームは騒然となった。
もう下がったほうがいいんじゃない? 無理しないで……という雰囲気も漂う中、なんとかふらふらと立ち上がった金本が一塁に歩き出したときは、ドーム中に安堵と「さすが鉄人金本……」という声が広がった。
だが、金本が本当にその鉄人っぷりをあらわにしたのは次の打席だった。なんと死球を受けた次の打席でホームランを打ったのだ。
普通、頭部に死球を受けた次の打席というのは、どうしても恐怖がチラついて踏み込めないものらしいが、金本はヒットどころかホームランを打った。
さすがにこれには野球に興味のない同僚たちも「金本やべぇ……」となり、なんだかわたしまで誇らしい気分になってしまったのだった。
だいたい稀代のアスリートというのはこういう常人離れしたエピソードを持っているもので、だからこそ名選手として語り継がれていくのだろう。
当時の同僚で現在も連絡を取っている人は一人もいないが、この金本の話をふってみればきっと今でも覚えているのではないかと思う。
こういう日もある
御影にある安くて美味くてそれでいてオシャレと評判の立ち飲み屋に行った。
噂に違わず、たいへん美味しく、値段も実際リーズナブルだったのだが、店長が従業員を叱るタイプの店でゲンナリしてしまった。
わたしは人が怒られているのを見ると、こちらまで怒られているような感覚になってしまうタイプなので、できればそういう場面には出くわしたくないのだけど、それを眼の前のカウンター内でやっているものだから非常に参った。
店を変えようとも一瞬思ったが、なまじ料理が安くて美味かったため、モグモグ食べている内になんだか機を逸してしまった。
そうこうしている間に、段々とアルコールがまわってきたのと、知人とのおしゃべりも盛り上がったためか、なんとかそのモヤモヤとした気分から抜け出ることができた。途中からはほとんどカウンター内のピリピリを気にせずに楽しくやれていたと思う。
昔の自分だったら、絶対に店長に対してイライラしてしまっていたと思うので、うまく気分のモードを切り替えることができたのは良かった。
まぁでもそれも叱られている従業員の子の存在を、自分の中でアルコールを使っていないことにしただけとも言えるかもしれない。
こういう日もある、と思いながら会計を済ませて店を出た。
ブルーボトル
今年の7月に神戸旧居留地にできた「ブルーボトルコーヒー神戸カフェ」に初めて行った。関西では京都に続いて2店舗目の出店らしい。
2015年に東京の清澄白河に日本第1号店がオープンした際に、そのニュースを「へー」といった感じで見ていたのを覚えている。
わたしとは縁がなさそうだな、と思っていたブルーボトルコーヒーだったが、その後の三年間で二回ほど訪れることになった。それも日本ではなく海外で。一度目はサンフランシスコで二度目はニューヨークだった。
『一度目はサンフランシスコで二度目はニューヨークだった』だなんて、自分で書いていても思わずゾワゾワしてしまうが、残念ながらそれは、アメリカに住む親族の葬式に参列するためにアメリカを訪れる機会がこの三年間で二回あったからで、つまり全然ウキウキの旅行気分で訪れたわけではなかった。
そんなわけでとくだん期待するでもなく、アメリカの地において人生初のブルーボトルコーヒーを訪れることになったのだが、その際の店員さんの対応が毎回とても素晴らしかったため、単純なわたしは一気にブルーボトルファンになってしまったのだった。
わたしがあまり英語が堪能ではないと気づいた瞬間に、話す速度を緩めてくれた店員さんや、カメラを触っていると席まで来て「どっから来たの?」と話しかけてくれた店員さんのことを今でもよく覚えている。
ブルーボトルもそうだが、スタバやマクドナルドなどのアメリカ資本主義の権化のような大企業に対して、ときに身構えてしまうこともあるけれど、そこで働いてる一人一人の従業員たちとそれとは当然また別問題なわけで、わたしはそのとき飲んだコーヒーの味のことはもうあまり覚えていないが、店員さんたちと交わしたやりとりのことは素敵な思い出として胸に刻まれている。
この日訪れたブルーボトルコーヒー神戸カフェがどのくらい神戸に根付くかはまだわからないけれど、頑張ってほしいと思う。
帰りに小雨が降る中、メリケンパークまで歩いてみたら、ベタベタな神戸感満載のいかにもなおっさん写真を撮ってしまったのでここに掲載しておく。